次回展|瀧口修造と中川幸夫
2025年4月10日(木)− 4月30日(水)
瀧口修造と中川幸夫:記憶の花
——カーネーション、オリーブ、チューリップ——
『華 中川幸夫作品集』の出版記念展(1977)の初日、会場である紀伊國屋画廊に一通の電報が届いた。
「トナリヤヘデンポウヲウツメデタサヨ ハナノイノチツイニスガタヲノコス ココロカラオヨロコビモウシアゲマス」
差出人は詩人で美術評論家の瀧口修造。この作品集に寄せた感動的な文「狂花思案抄」の、言わずと知れた執筆者である。実際、「隣屋」と書くほど二人の住所は近く、哲学堂公園のある中野区の江古田を寓居とする中川は折にふれて新宿区西落合にある瀧口邸を訪れ、そのときに接した作品や会話をこと細かく手帳に残していた。中川の東京での初個展(1968)では初日に会場に現われたと記されている。
だが、瀧口本人は当時、脳血栓、椎間板ヘルニアのせいで外出もままならず、初日の3月17日に新宿まで出かける状態ではなかった。電報はそのための代替だったとしても、いまとなっては、なんとも親密な呼びかけが残されたことにたまらない気持ちにさせられる。
記念展ではあるが、『華』収録の60点の写真を並べた展覧会ではなく、入り口に和紙を貼り重ねたオブジェが横たわり、床にはさらに水の入った巨大なゴム風船「さわらないで」。一方で、枯れた蓮の葉30枚ほどが真鍮の針金の先端で人の動きで揺れる「どこへ」が会場の一角を占めている。瀧口は20日にはこの場に足を運ぶことができて中川を悦ばせた。
花液走るカーネーション
「狂花思案抄」の執筆は1972年。その前年暮れに中川が瀧口邸で披露したカーネーションによる「花坊主」(1973)の原型となる「一種異様な出来事」を観たことがきっかけだったと文中にある。中川は密封されて赤い花血を流す花弁を自作ガラス器に詰めて和紙の上に逆さに置いた。この出来事を厳粛なる「セレモニー」と称した瀧口は、正月には本とはがきとオリーブを中川に贈っている。こんなやりとりはたびたびあった。
だがこれ以降、筆者が知る限り、瀧口は中川についても、いけ花についても、まとまった文章を書いてはいない。
「狂花とオブジェ」(1938初出)、「いけばなと造形芸術」(1957初出)を「花坊主」体験後に雑誌『草月』(1875)に再録するにあたり、瀧口は「読み返してみて赤面するほかはない」とあとがきに記した。草月流の創始者・勅使河原蒼風について何本かの記事(1953〜66)を発表していたが、西洋のオブジェは物の言葉で語らせようとする試みなのに対し、「いけばなのオブジェはその逆を行こうとしている」と指摘し、蒼風には期待しつつ疑問を呈するという両義的な態度をとった感がある。
いずれも没後発刊の『コレクション瀧口修造』第十巻「デザイン論/伝統と創造」(1991)で読むことができる。
「いけばなという石のような固定観念の静かな瓦解」を「花坊主」に視て、「狂花」ではあるが「オブジェ」ではない花が中川の創造だったと瀧口は考えたのだと推測する。自らのオブジェ観に再考を迫ったのが中川のいけ花だったとしか思えない終筆である。
中川にとって重要な人物を二人だけ上げるなら、まずは1955年が初対面の造園家で「いけばな芸術」創刊者の重森三玲だ。「東福寺・市松模様の庭」で知られる三玲はアブストラクトを理想として、息子弘淹によればシュルリアリズムやオブジェに「無理解だった」。が、中川を書や工芸や庭園といった日本の技芸全般の目利きに育てたのは重森だろう。書とガラスの制作は流派と決別した中川の作品制作の原資となった。
瀧口はシュルリアリズムやオブジェを熟考した果てに、オブジェ花に対する期待を封印したのだった。中川の両人に対する敬愛は終生変わることがなく、守護神と言っていい。それなら、瀧口にとって中川はどんな位置を占めていたのだろうか。
根こそぎのオリーブ
自筆年譜の1963年の項に「職業としての書くという労働に深い矛盾を感じる」と表白した瀧口だ。だが、その60歳以降も、作家個人や展覧会には私信の体裁も含めて文を寄せた。宛先は戦後美術の良質な冒険者を網羅している感があり、詩人の炯眼と影響力の大きさを感じさせる。
没後に「瀧口修造 夢の漂流物」(世田谷美術館、2005)が開催され、130名の作家、自作も含めて700点ほどが並んだ。中川のガラス作品も何点かあったものの特に目立つものではなかった。一方で、佐谷画廊企画の「オマージュ瀧口修造」(1981〜2007)展が28回続く。詩画集『物質のまなざし』や実験工房、ジョアン・ミロ、A・ブルトン、駒井哲郎ら瀧口の知己をタイトルとするオマージュ展の記念すべき20回展に、主催者である佐谷画廊と資生堂は中川を指名し、資生堂のザ・ギンザアートスペースを会場として用意した。瀧口のあまたの知友の中で、中川はある種特別な意味をもっていたようだ。
中川は根こそぎにした4本のオリーブを銀座の地下に甦らせた。繰り返し語られてきた瀧口邸のオリーブの大樹ながら、地下深く触手をめぐらす根を視た者はいない。瀧口でさえ知らない、根こそぎのオリーブだった。小豆島・豊島(てしま)から船で岡山に揚がり、陸路トラックでやってきたオリーブは、中川生誕の瀬戸内海産であり、遠い過去にはゼウスとアテナイとアポロンに捧げられて不死と実りを象徴する。会期中、葉が少しずつ落ちても枯れることがなかったばかりか、新芽がのぞいて会場に日参した中川を喜ばせた。
20世紀最後の年、閉鎖が決まっていたスペース最後の企画、瀧口が愛したオリーブということもあって、展覧会は話題をさらい、会場の入場者数の記録を樹立した。多数の反響の一つ、「前衛たちの友愛のしるしとして甦る『オリーブ』と『方舟』と『遮られない休息』と」(「アサヒグラフ」2000.7.21号)が筆者のエッセイである。
なお、展覧会タイトルの「献花オリーブ」は、「はじめ、いけばなは『供花』『献花』でもあった」という「狂花思案抄」の一節を汲んでの主催者の命名にちがいない。
富山と新潟のチューリップ
よく知られように中川は花材も器も独特な選択をする。たとえば曼珠沙華、ゴムチューブ、白菜。その結果、作品は動物のようでも鉱物のようでもあり、腐らせて花液を流すさまを作品化するなど600年のいけ花の歴史になかった独自なものだ。それでも代表作以外で好きな花材と作品を挙げるなら、林檎=「デリシャスの像」、薔薇=「葉は知っている」、蓮=「花狂」「空」、カーネーション=「怒り葉」「聖なる書」、チューリップ=「魔の山」「チューリップ星人」……。
「生命の芸術」なる啓示が中川にあったのは1980年のことだが、その全作品を「生命の芸術」と呼ぶこともできそうだ。「花の命ついに姿を残す」と電報を打った瀧口はそれを喝破していたのだ。そして富山出身の瀧口は、作品集『華』の掉尾を飾る砺波産のチューリップによる「闡 ヒラク」を、ひそかに梱包アート、メールアートと命名していたかもしれない。
最も話題になった中川のイベントが「献花オリーブ」。そして、舞踏家・大野一雄を迎えて、信濃川河川敷に縄文の里のチューリップ20万本、ゆうに100万枚の花弁をヘリコプターから撒き降らせた奇跡の「天空散華」(2002)である。
花を媒介に天地創造のさまを幻視し作品化した中川幸夫は、いまも彼岸と此岸に偏在している。
森山明子
もりやま あきこ
1953年新潟県生まれ。東京藝術大学美術学部芸術学科卒業。1998年に武蔵野美術大学教授となり、現在神戸芸術工科大学副学長・教授。
主著は『まっしぐらの花―中川幸夫』(美術出版社)、『石元泰博―写真という思考』(武蔵野美術大学出版局)、『新井淳一―布・万華鏡』(美学出版)、それら3冊の改訂版を「奇跡シリーズ」として発刊(2022~23)。ほかに『デザイン・ジャーナリズム 取材と共謀 1987→2015』(美学出版)などがある。
会期:2025年4月10日(木)- 4月30日(水)
開廊時間:10:00 - 17:00
休廊日:日曜日・月曜日